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航海と春

公開日:2023年05月28日

個人

航海と春

趣味で書いている短い物語をここに置いておきます。

航海

寄る辺のない海が私の庭であり、暗闇に帆を立てる航海が私の人生であった。 船は手漕ぎのボートと呼んだ方が差し支えない程にチープな代物で、オールはそもそも壊れていて少し進んでもすぐ波に押し戻されてしまう。 海は荒れていて船は常に激しく揺れ、私は酔い続けていた。 ある時灯台を見つけた。 優しい暖かさを感じられるような光であった。やっと明かりに辿り着けると思った。 私は光に誘われた羽虫のように船を漕いだ。 その灯りに触れるだけで安心しさえした。 もう暗闇に怯える必要は無いのだと。 その時、ふっと灯台の明かりが消えた。 私は初め、何が起きたのかわからなかった。 手に入れたと思った光は今はもうそこになく、失われてしまっていた。 灯台があったであろう場所を目指し、船を漕ぎ続けるが、もうどこにも見当たらない。 呆然としていたが、私はまた船を漕ぎ続けた。というより、船を漕ぐ手を止めることが出来ない。 どこへ行けばいいのか分からない。 海に飛び込もうという考えすら起きない。 ただ、暗い海の中で時折酔いによって嗚咽し、吐きながらも私は船を漕ぎ続ける。 これが私の人生であった。

「春になったら死ぬの」と彼女は言った。 近所の公園に行くといつも彼女はいた。 僕より少し年上で、コートの袖から出る手は透き通るように白い肌をしていた。 「何故春なのか」と僕は凍える手に息を吹きかけながら尋ねた。 「お葬式に桜が咲いていて欲しいの」 枯れ木を見ながら彼女はそうつぶやいた。 「でも君はそれを見られないじゃないか」 「私が桜を見ることが重要な訳じゃないのよ」 彼女がマフラーを巻き直して僕はそれをただ見ていた。 僕らが座っている狭い公園のベンチの上に枯葉が落ちた。 「でも君がいなくなったら僕は悲しいな」 彼女は笑った。 僕の平凡さが彼女を殺すのだと気づいた。 冬だった。冷たくてなんの救いもない冬だった。

春が来た。 公園に行くと彼女はいた。 髪が伸びて綺麗な肌をして明るく笑った。 「死ぬのはやめることにしたの。」 笑顔でこちらに笑いかけ口元に手をやる彼女の薬指に指輪が光っていた。 それで僕は彼女がもういなくなってしまったことを知った。