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さよならだけが人生だ

公開日:2022年02月09日

個人芸術

さよならだけが人生だ

勧酒

「さよならだけが人生だ」という言葉がある。 由来は「勧酒」と言う漢詩の一文で、井伏鱒二がそう訳したものが広まったものである。
この盃を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐の喩えもあるぞ さよならだけが人生だ
確か「勧酒」自体は今生の別れになる友人の送別の席で詠まれた漢詩だったはずだ。 井伏鱒二のこの訳は妙訳として知られている。 直接的に訳すと、「さよならだけが人生だ」の部分は「人生に別離はつきものだ」くらいの意味になる。 しかし「さよならだけが人生だ」と訳すことで、大分この詩の意味的な危うさが変わってくるから不思議だ。 花に嵐の喩えも好きだ。花が咲けば風が吹き、雨が降る。諸行は無常であり、失わないものなどないのだ。 まぁ僕は国語の先生ではないので難しいことはよくわからないし、これ以上話せることはない。 何が言いたいかというと、僕はこの歳になって人生の大半は喪失なんだと、さよならだけが人生なんだと気づいたってことだ。

鼠三部作

村上春樹の「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」の3作は鼠三部作と呼ばれている。 鼠と呼ばれる主人公の親友が出てくるからである。 そして、それらは全て主人公の「喪失」の物語である。 「風の歌を聴け」の中で主人公はこう言う。 「様々な人間がやってきて僕に語りかけ、まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通り過ぎ、そして二度と戻ってはこなかった」 この三部作はまさにそういう話である。 何一つ、留まることなく失われていく。 その様が淡々と描かれていて、僕にはそれが時折針のように刺さった。 この主人公はまるで僕みたいだ、と。(僕は異常に鋭敏な感性を持っているので、ほぼ全ての作品にこれを思うが。) この「喪失について」というブログを書こうと思ったのもこの三部作が理由である。 少し話が逸れるが、描かれる女の子がとにかく魅力的で、僕は特に「1973年のピンボール」に出てくる双子の女の子が好きだ。 これは僕の感想だが、この双子は主人公の喪失からくる孤独に寄り添う役回りだったのではないかと思う。 この時の主人公は主人公にしては珍しく、喪失に参っていたのだ。 そこにこの双子が現れたことで、主人公の痛みはマシなものになっていくように見えた。 もしくは双子が「悲しいの?」と聞く事で悲しさが際立っているようにも見えた。 僕にもこんな双子が突然現れてくれたら、と絶賛傷心中だった僕は思った。 男の僕からすれば、女の子というのはとても神秘的に見えることがある。 何か人間的でない力が女の子から僕に伝わってくる時がある。 でも僕には返せるものが何もない。 だからみんな僕の元から去っていってしまうんだろうか。

智恵子抄

高村光太郎という詩人がいた。 偶然にも僕が引っ越した家のすぐそばに、彼の墓はあった。 ある女の子が「染井霊園に行きませんか?」なんて言い出さなかったら気づかなかった。 「そんな女の子は小説の中にしかいないだろう」「孤独から来る寂しさで幻覚でも見てたんじゃないか、病院に行け」と思うだろうが、僕も同感だ。 でも、本当にいたのだ。 話を高村光太郎に戻そう。 彼の妻は智恵子といい、結婚生活の途中で統合失調症の症状が出始め、最終的に夫が誰かもわからなくなっていた。 高村光太郎は智恵子に関する詩を書き、詩集としてまとめた。 それが智恵子抄である。 本当に素晴らしい作品で、僕は大学の授業で「檸檬哀歌」という詩に出会って彼とこの作品のことを知った。

https://aozoraroudoku.jp/voice/rdp/rd568.html

檸檬の描写がとても美しく、死に際の智恵子の様子を際立たせている。 決して楽な人生ではなかっただろうが、幸せな夫婦だったんだと思う。 同じお墓に入れていることがこの残酷な現実のなかでとても救いだ。 僕はお墓に手を合わせ、作品のお礼を言った。 智恵子抄には智恵子がどんどん失われていく、もしくは別の何かになっていってしまう様子が描かれている。 これも喪失だ。 そして僕を染井霊園に誘ってくれた女の子も結局は僕の元からいなくなってしまった。 これも喪失だ。

ぼくを探しに

女の子が絵本を僕にプレゼントしてくれた。 君たちの言いたいことはわかってる。 そんな素敵な女の子は存在しないってことだろう? でも確かに居たんだ。 とにかくその子は僕に合いそうだと「ぼくを探しに」という本をプレゼントしてくれた。 それはとてもシンプルな物語なのだが、とても考える余地のある、考えさせられる物語だった。 僕の人生について回っていた、ある一つの呪いがある。 「幸せになったら曲が作れなくなる」 僕は歴代の彼女全員にこれを一回は言って、時には実際に別れたり、引き止められたりした。 これはそれを象徴するような絵本だった。 満たされて失うものがあるということ。 ただでさえ失ってばかりなのに、満たされたらそれはそれで失うものがあるなんて、やっぱりさよならだけが人生なんだよ。

人生

僕の人生は喪失の連続である。 大抵の人は僕の元からいなくなっていく。 彼女も好きな人も友人も知人も。 大切なものもどんどんなくなっていく。 だからと言って彼らを責めることも、これから出会う、お別れする予定の誰かを蔑ろにすることもできない。 僕はずっと人が嫌いだと思ってたけど、最近気づいた。 僕は人が好きなんだ。 でも僕はちょっとおかしくてみんなに嫌われてしまうから、人が嫌いなふりをしておく。 そうすれば嫌われても傷つかないし、嫌われても僕の方が先に嫌いだったんだと言える。 そんなちっぽけなことのために僕は25年も使ってしまったんだな。 時間も失われたものの一つだ。 音楽家になりたいという夢も。 誰かと幸せになりたいということも。 そして大体のものと引き換えにお金ばかりが手に入った。 昔はお金がなくて、逆にたくさんのものを失っていたのに。 一つを手に入れると一つを失う。 僕は絶対に両方は手に入れられないんだなと思う。 僕が幸せを失って今手に入れているものは、この文章だ。 わかるか? 僕が幸せだったらきっとこんな文章書かなかった。 必要ないからね。 今日も1日好きに仕事して彼女とご飯を食べていちゃいちゃして寝ました。なんて。 駄文にもほどがある。 良い創作は満たされない心からしか生まれない。 もちろん僕のこの文が良い創作かと言われるとそれは読み手の評価によると思う。 でも僕は納得して書いてるから、そういう意味では良い創作だ。 さて、これを読んでいる君は何を失って何を得た? 君の人生は何だ?