ガソリン
雨の日が続いている。 「雨の匂い」と呼ばれる匂いにはペトリコールという名前がついている。 雨が降る前にコンクリートの地面が温まり、油やゴミが揮発して発する独特な匂いのことである。 小さい頃あの匂いが好きだった。 これからすごい雨が降る!というのは幼心にドラマチックさを感じた。 僕が仕事や仕事の勉強をしているうちに、世間ではGWが明けたらしい。 とても有意義だった。 昔だったら「俺には仕事しかないから、もうこれしかないから」と自分を追い詰めていただろう。 僕はそういう風にしか頑張れなかった。 それが間違いだとは思わない。 間違いだと言ってしまえば僕の今までの人生が間違っていることになってしまうからね。 自分を肯定出来ず、足りないものばかり数えて、人並みになるためにただ努力するだけでは足りず、自分を傷つけて、誰かに愛してもらうことでしか生きていて良いと思えなかった。 今は違う。 僕は人生の素晴らしさを感じることが出来る。 本を読めば新しい考えが身体中に染み渡り、視界が開ける感覚がする。 晴れの日に街を歩けば、太陽の匂いがして暖かい空気が皮膚に触れ、世界に歓迎されている気がする。 早起きをしてコーヒーを飲んで大好きな仕事をすれば、ずっとこのまま夜が来なければいいのにと思う。 映画を観れば現実を忘れ、時に生きる勇気をもらったり、考えるきっかけをもらえたりする。 誰かと話せば僕らが受けてきたひどいことなんて全部幻な気がして、思いを誰かと共有しあえる喜びを感じる。 音楽を聴けば体が動き、心も動き、僕はその間だけ別の世界に入れる。 僕は人生は素晴らしいと思う自分がいることに気づいてしまった。 人生の9割が辛いことだったとして、喜びが1割あったらそれで良いと思えるようになった。 本当になんでもないことが僕らにとっては大事だ。 家族からたまに来るLINEや友達とゲームをする時間、毎日地道に進める仕事や、好きなアーティストの新譜。 晴れた日に外に出ること、早起きをしてコーヒーを飲むこと。 僕はそういう一瞬のために頑張れば良いと思い始めた。 心と体が健康で、ほんの少しの勇気があれば僕らは人生の素晴らしさに触れることが出来る。 でもまだこれが確固たる自分の起爆剤であり、頑張る動機付けだとは思えていない。 やっぱりまだあの頃の破滅的な衝動に襲われることがある。 それでも僕はなんとか頑張る理由を変えることが出来つつある。 僕というマシンを動かす燃料が変わりつつある。
創作
何故僕らは作らなければいけないのか。 僕は恥ずかしながら音楽や詩や、コードを書いて生活している。 そういうものに貴賤はなく、僕は誰もが詩人になれると思っている。 夏目漱石の草枕という小説を勧めてくれた人がいた。 そこにこんな一節がある。
住みにくき世から、住みにくき煩わずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。 あるいは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧わく。 着想を紙に落さぬともきゅうそうの音は胸裏に起おこる。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自ずから心眼に映る。 ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得うれば足たる。 この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家にはせっけんなきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
つまりだ、詩を書かなくても、絵を書かなくても生きていける人たちは自分の見ている、感じている、生きている世界に満足しているのだ。 生きている世界に最高の音楽が流れ、最高の風景があり、なんの生きにくさもないなら、わざわざ理想の世界を表現する必要がないのだ。 だから何も作らない、作る必要のない人は誰よりも幸福だということだ。 では何故、僕らは何かを作るのか。 世界が生きにくいからである。 まだ最高の音楽が見つかっていないからで、最高の詩が書けていないからで、最高の絵が描けていないからである。 それらがこの世のどこにもないから、僕らはそれを作る。 僕らが見たい世界を描く。 それが芸術だ。
他にも僕らが芸術を作る理由が草枕に書かれている。 芸術が素晴らしいと感じるのは、当事者ではないからだ。 例えばドロドロの昼ドラやアクション映画は面白いと感じるだろうが、自分が現実で同じシチュエーションに遭ったら楽しめはしないだろう。 だから僕らは辛いことがあった時、僕らはそれを歌にする。絵に描く。 すると、辛い思い出は途端に芸術になる。 芸術になったということは当事者ではなくなるということだ。 残った僕らは、辛い目に遭った者ではなく芸術を作った者として生きる。 悲しみを芸術に昇華させた喜びを持って生きることができる。 というのが草枕で述べられている理屈だ。 ひとつだけ、注釈をつけるとすれば、草枕も芸術だということだ。 だからそれっぽく書かれてはいるが、僕らの心や人生はそんなにシンプルではない。 辛いことがあってそれを芸術にしたら辛さが消える訳じゃない。 僕は去年辛いことがあって12曲も書いたけど書く度にいろんなことを思い出して、いろんなことが戻らないことを改めて痛感し、身も心も擦り減って、最後には布団から起き上がれなくなった。 だから、芸術を作ることは僕らを救ってはくれないと思う。 では何故作るのか。 それは「作らないと報われない心があるから」だ。 僕ら作り手はとても惨めで孤独だ。 生きるのが辛いと常に感じている。 ものを作る時は決まって独りだ。 誰かと作る工程があったとしても、一番大事な部分は結局独りでやらなきゃいけない。 そんな僕らを世の中は寄ってたかってひどい目に遭わせる。 このまま黙っていたらどうなるか。 「ただ辛い目に遭った人間」だ。 でも何か作れば、僕らは僕らの運命に抗うことができる。 「芸術を作った人間」になれる。 ただの惨めで生きづらい僕たちが唯一自分を誇れる方法。 それが何かを作ることだと僕は思っている。 大それたものじゃなくてもいい。 絵でも小説でも詩でも走り書きでも音楽でも鼻唄でもプログラムでも良い。 題材は辛い目に遭った経験そのものじゃなくなっていい。 ただ自分を肯定するために必要な何か一つがあれば。 それが創作だと僕は思う。