子供と大人
僕は今月で26歳になる。 ずっと大人になりたいと思っていた。 それはまさに子供だった小学生の頃から、世間からすれば大人と言われる20歳を超えた今でも思っている。
子供
子供の頃、大人という生き物がとても自由に見えた。 お金と時間を自由に使い、自分が好きなことを好きなだけやっても咎められない大人たちが僕は羨ましかった。 僕はゲームは1週間に1回1時間と約束で決まっていた。 買うときに父にそういう約束をさせられたのだが、今考えても子供の僕には選択権がなかった。 約束出来ないと言えばゲームを手に入れられないし、約束してしまえばゲームは手に入っても1週間に1回1時間しか出来ない。 そしてパソコンで音楽を聴きながら勉強していたら、いつのまにかフィルタリングソフトが導入されていて、ネットが9時まで、1日1時間に制限されていた。 ケータイは中学の時に、公立ではあったが1学年300人、推薦で早稲田や青山に行くような塾通いの秀才が山ほどいる中で、 僕は週6で強豪の野球部として部活動をして塾にも行かず定期テストで学年20位以内に入るという壮絶な努力をして手に入れた。 それも親とした取引だった。 そして実際は学年21位だった。ほぼ全てのテストで90点以上を取った。でも21位だった。 僕は帰って20位ぴったりだったと嘘を吐いた。嘘を吐いたというより口が勝手に動いていた。 どんなに頑張っても30位代から抜け出せなかったなかで初めて20位代を取って、もうチャンスはないと思ってしまったのだ。 でもすごく悔しくて、罪悪感に耐えられなくなってすぐに21位だったと言い直した。 そう言うと親は「まぁ仕方ないね」とケータイを買ってくれた。 (そのあとちゃんと13位を取ったので文句はあるまい。) あれが、21位だと先生に告げられた時が人生で初めて膝から崩れ落ちた瞬間だった。 あの時僕は努力なんてしても無駄なんだと思い知らされた。 世界の理不尽を思い知らされた。 僕よりテストの点の悪い奴らがケータイを何もせずとも買い与えてもらい、無制限に使っていた。 そして僕よりテストの点の良い奴らは塾に行かせてもらい、楽な部活をしながらテストでなんとなく良い点をとる。 この世は環境が全てだ、と中学生だった僕は思った。 自分の力で変えられる範囲の環境を変えなくてはならなかった。
あの頃の僕の素直な気持ちはこうだった。 今はもう頭が悪いとか良いとか、そもそもそういう尺度で人を測らない。 そういう意味では僕は大人になったのかもしれない。 今も昔も世界を憎んでいるが、誰かの環境を羨んだりすることはなくなった。 自分より恵まれたように見える人でも、理不尽が平等に降り掛かっていることを知っているからだ。
大人
僕は校則も生徒会もない自由な校風の公立高校を選んだ。 そして音楽に夢中になり、大学へ。 心を壊しながら大学へ通い、音楽を作り、心理学を学び、気づいたらフリーランスでシステムエンジニアになっていた。 僕を自由へと駆り立てるものはおそらく子供時代にあったんだなとここまで書いて気づいた。 大人になった僕は子供の頃なりたかった大人になれているだろうか。 おそらくなれているだろう。僕は社会人のなかでも自由な方だと思うし。 でも大人になるに連れて変わった、「大人」のイメージに僕は全く近づけていない。 僕は我慢が出来ないし、自己中心的だし、心がとても弱いし、コードと音楽と詩を書くことしか人並みに出来ない。 僕の言う大人というのは我慢が出来て、配慮が出来て、「仕事」だから、とかちゃんと切り替えられる人たちだ。 でも僕は出来ない。スイッチがない。 それをずっとコンプレックスに思ってきた。 でも最近違うんだと気づいた。 大人なんていない。 スイッチのついている人間なんていない。 僕が大人と呼ぶ人たちもフラれた次の日は仕事に支障が出て、忙しくてもご飯に誘えば来てくれて変わらず笑ってくれる。 それで、大人っていうのは「自分をよく知り、自分をコントロールできる人」なのかもしれないと思った。 僕は25年、今月で26年連れ添ってきたこの心身についてよく知ろうと思わなかった。 僕は心が弱いから、などと言って自分をコントロールしようとしてこなかった。 だから今僕は少しずつ自分のことを知ろうとし始めている。 何をしたら自分が悲しくて、悲しい時はどうすればいいのか。 僕は心が二度ほど壊れているので、薬に頼るのは仕方ない。 でも薬は根本解決にはならないから、辛い時の自分のマインドをどうすれば良くできるか考える必要がある。 どうすれば辛いことを考えずに済むか、ダメージから早く立ち直れるか。 僕は心が弱いからなんて言い訳をするのは26歳からはやめにしよう。 26を前にそう思った。 僕は今度こそ僕の思う大人になるんだ。