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この時代に読むべきSF、華氏451度について

公開日:2025年12月02日

小説

この記事は「2025年の"推し"本 Advent Calendar 2025」の2日目の記事です。

一席ぶつ時間はあるだろうか?一千万、二千万、いや三千万の視聴者の目のまえで猟犬にとらえられたとき、この一週間の経験のすべてを短いフレーズに、あるいはひとことにまとめあげることはできるだろうか?猟犬がペンチみたいな金属の口におれをくわえて闇のなかに駆けていくのを固定カメラでとらえ、遠く小さくなってゆく姿を見送る秀逸なフェードアウトが決まったあとも、視聴者の心に長く残るようなフレーズを思いつけるだろうか?彼らの顔をこわばらせ、目を覚まさせるには、どんなひとことを、どんなフレーズをいえばいい?

「華氏451度」とは、アメリカの作家、レイ・ブラッドベリが1953年に書いたSF小説であり、紙が燃え始める温度の事である。 Wikipediaみたいに始めてみたものの、とにかく今の時代に読んで欲しい小説だと思ったので、感想文というか、紹介文を書いてみることにした。 毎年、凄く刺さる小説が1冊あるのだが、今年はこの「華氏451度」だった。 なるべくネタバレは少なくしていきたいが、胸を打ったセリフは書きたいので、ネタバレが嫌な方は是非一度読んでからまた戻ってきて欲しい。

あらすじと訳

物語の舞台は未来のアメリカで、そこでは書物を読むことはおろか、持つことさえ禁止されている。主人公のモンターグは「昇火士」(fireman)という職業で、書物があるという通報があった場所に駆けつけて火を放ち、燃やす。  しかし、モンターグはこの仕事に次第に疑問を持ち始め…という話なのだが、もうすでにめちゃくちゃ面白くないですか?まず、僕が読んだのはハヤカワの新訳版なのだが、この「fireman」を「昇火士」と訳す面白さ。言わずもがな消火士とかけてのことだろう。しかし、主人公の仕事は「火を消す」ではなく「火を昇らせる」ことなのでこの字になっている。ちなみにこの時代の家は完全耐火仕様になっているため、家には火は上がらないのだが、「昔は家が燃えることがあり、火を消すことがfiremanの仕事だったらしい」と話す描写もあり、このfiremanのダブルミーニングという点においても非常に素晴らしい訳になっていると言える。新訳版の訳者後書きに、旧訳では「焚書官」と書いてあったが、この世界では本を燃やすことは正しいことなのでもっと明るいイメージを持てるようにこの訳にしたと書いてあった。とにかく僕はこれにまず感動した。 僕がこの本をこの時代に読むべきだと思った理由がある。それは、僕らはこのレイ・ブラッドベリが1953年に書いた未来の世界をちょうど生きていると言えるからである。本人も「私は短編小説『華氏451度』を書いたとき、四、五十年後に生じるかもしれない世界を描いているつもりだった。」と言っている。(Wikipedia参照) まぁその未来よりすでに20年ほど経ってしまったわけなので少しずれているかもしれないが、僕としてはこの本の中で起きている現象が今まさに現実に起きていると思ったのだ。というよりもこの小説が書かれた1953年から普遍的に存在し続けている問題が描かれていると言った方がいいかもしれない。

この世界と昇火士

華氏451度の世界では、もちろん誰も本を読まない。「ラウンジ」と呼ばれる映像を映す四方を取り囲む壁があり、これで参加型のよくわからない家族ドラマのようなものに参加したりしている。 作中では主人公の妻はラウンジに映る住人たちのことを本当の家族だと思っているし、逆に主人公に対してはほとんど会話が通じないような状態になってしまっている。 ラウンジは現代でいうテレビ、パソコン、スマホなどの映像デバイスであり、ライブ配信や動画というコンテンツにあたるのではと推測できる。もっと言えば、「VRゴーグルをつけてVRChat(VR世界でさまざまな人と交流できるメタバース空間)をする人」はまさに「ラウンジで家族と話す主人公の妻」そのものではないだろうか? レイ・ブラッドベリ自体はこの本を書いたきっかけとしてラジオを上げているそうなのだが、要はこのラウンジは「実際には他者と繋がっていないが、他者と繋がったような気になれる体験」のことを指しているのではないかと思う。

主人公は昇火士の隊長であるベイティーからこの世界がどうしてこうなったのか、どうしてこの職業が出来たのかを知ることになる。 これは長いので全文は載せないが、本当に素晴らしく示唆に富んだセリフなので、是非読んでほしい。 それは大体こういう内容である。

人間はものを考える時間を減らすために、スポーツ組織や漫画など刺激的なものを沢山作った。漫画なら挿絵を増やして刺激はなるべく強く多く、そうすると心が吸収する量は減り、せっかちな奴らが増え、彼らはいろんな場所へ急いで行くがどこへも行けない。さらには少数民族が大量に入って来て、その分市場は膨らむが、彼らは配慮を!と求める。

市場が大きくなればだ、モンターグ、なればなるほど論争は避けたい。

そうして、文学は衰退した。(ここがちょっと飛躍している感じがあるのだが、この下のまとめで僕なりの考察を書く) しかし、コミックやポルノはそのまま流通した。一般大衆が求めたから。

見てのとおりさ、モンターグ。これはお上のお仕着せじゃない。声明の発表もない、宣言もない、最初から何もないんだ。引金を引いたのはテクノロジーと大衆搾取と少数派からのプレッシャーだ。

そして、人々は考える力を持つ人を恐れるようになる。

審査する人間や、批評する人間、発想豊かな創作者、賢者の育成をおこたるうち、“知識人”ということばは当然のようにののしり語となった。人はいつでも風変わりなものを怖れるな。お前のクラスにもいただろう。人一倍頭がよくて、暗誦したり先生の質問に答えたりをひとりでやってのけてるやつが。ほかの生徒はみんな鍋の人形みたいに黙りこくってすわり、そいつを嫌ってるという図だ。放課後、きみらがいじめたり殴ったりする相手に選んだのは、そういう秀才君じゃなかったか?

憲法とは違って、人間は自由平等に生まれついてるわけじゃないが、結局みんな平等にさせられるんだ。誰もがほかの人をかたどって造られるから、誰もかれも幸福なんだ。人がすくんでしまうような山はない、人の値打ちをこうと決めつける山もない。

となりの家に本が一冊あれば、それは弾をこめた銃砲があるのとおなじことなんだ。そんなものは焼き払え。

こうして昇火士という職業が出来た。

「となりの家に本が一冊あれば、それは弾をこめた銃砲があるのとおなじことなんだ。そんなものは焼き払え。」これはとてつもない名言で、すごく記憶に残っている。僕らは言葉で人を殺すことができるし、逆に言うと言葉の力というのはそれくらいの強いものなのだという力強さも感じられる。

と、ここまでが隊長が話したことなのだが、僕の考察というか意訳も含めてまとめると、テクノロジーによって大量の刺激を簡単に得られるようになり、大きな市場に、大衆に、コンテンツが届くようにもなった。そうすると市場が大きいし、テクノロジーもどんどん進歩するので、需要も供給もどんどん増える。人々はそのままどんどん刺激を求めるようになる。そうすると文字は刺激的とは言いづらいから減っていく。むしろ、文字は、そこから得られる教養や思想は、人に考える力を与えるが「ものを考えられる」ということは「なにかを判断できる」ということで、そこにはマイノリティかどうかを判断することも含まれる。もちろんマイノリティたちはそれを嫌がる。マイノリティと言っても種類の違うマイノリティが沢山いる。市場はすでにそこにも最適化されてしまっている。じゃあ、ものを考えられなくしてまおう。そうすれば人は誰かを判断したりしないし、批判したりされたりすることもない。その火種になるようなものは焼いてしまおう! という世界であり、職業なのだ! どうだろう、まさに現代ではないだろうか? マイノリティに考慮した結果面白く無くなってしまった映画の話や、ドーパミン中毒なんて言葉もよく聞く。世間ではタイパという言葉が流行し、映画館で観る2時間の映画から家で見るNetflixへ、NetflixからYoutubeのファスト映画へ、ファスト映画からTiktokのショート動画へ。コンテンツはどんどん短く、そして短い時間で目を惹くように刺激的になっていく。「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」なんて本も話題になった。 供給の増加によってコンテンツが短くなることについても作中で言及されていて、今例に挙げたファスト映画が作中だと「今や評論を読んでハムレットを読んだ気になる」みたいなことが書かれている。 大衆に広まれば広まるほど中身は単純化し、大味になっていく、とも。

最後に

この本はこの2025年とこれからを生きる僕らの、資本主義や人間の弱さの行く末を暗示しているように見えた。 こうなってしまった世界に対して主人公が最終的に行き着く先はもちろんこの本を読むとわかるのだが、それはドラマティックではないけれどすごく現実的に、実直に効いてくるようなことだと思っていて、それもまた素晴らしいと思う。 また、非常に素晴らしいセリフが沢山ある。(白樺派好き垂涎のセリフが。) AIの台頭により、最近はSFを読んだ方が良いみたいに言われることも多い。 読むなら是非、この作品から読んでほしい。

ひさびさにいっぱい文字を書いたので、変な感じになってるかもしれませんが、最後まで読んでいただいたありがとうございました! みなさん良いお年を!